今日は、私がなぜ駐在員の方々に英語を教えるようになったか、ということを書き綴りたいと思います。
今でこそ数か国語を話す私は、昔は劣等生
私は今でこそ数か国語がそれなりに話せるようになりましたが、中学生時代から私はずっと夢見る劣等生でした。
どのぐらい劣等生かというと・・・、学年で下から二番目を常にキープするぐらいでした。
これで「実は学年に3人しかいませんでした」なら単なる笑い話なのですが、私の通っていた中学校は学年で152人生徒が在籍していましたので、やはり本当に頭が悪かったのです。
勉強も私なりに頑張っていたつもりでした。ですが出てくる点数は赤点ばかり。英語に至っては、4択の問題形式なのに25問全て間違えて0点を取るという芸当すらやってのける、見事な劣等生っぷりでした。
さて、そんな私は健全な妄想家でもありました。自分が格好いいと当初思っていたのは、洋楽であったり、洋画であったりしました。
↑『最後の恋の始め方』という映画。英語学習用のDVDとしてはかなりオススメの部類です。
その中で出てくるヒーローは、大抵アメリカ人だったのですが、彼らが映画の中でバリバリ働いている様子を見て、私は高校生の時に、ある決意をします。
「・・・20代は海外で働くんだ!」
「海外で働く」と決めた私がやったこと
ここでスイッチが入った私は、実際に英語が使えるようになるにはどのようなプロセスが必要なのか?を研究し始めます。
高校に入ってから、英会話レッスンの無料体験教室に行きました。その中で、良さそうなところを見つけよう・・・と思っていたのですが、色々行くうちに、ある一つのことに気づきます。
それは、英会話教室に来ている人たち全てが話せるようになるわけではない、ということでした。
確かに、英会話をしに来るのだから、ある程度の上達はするようなのですが・・・、海外でバリバリと仕事をしていくための英語力には、感じられなかったのです。
大学に入ってから、私は留学生とつるむことを意識し、ひたすら英語漬けの毎日を過ごしました。
しかし、それではある一定レベル以上伸びないということに気づきました。「慣れ」では到達できないポイントがあり、そのために上達する要素は他で補わなくてはいけないことに気づき、例えば発想力・瞬発力・表現力など、教科書には書いていないけれども英会話に必要だと思われる箇所を意識的に伸ばし続けました。
気づけば英語力はかなりのものとなっており、就職活動はアメリカやドイツでも行い、内定をいくつかもらえました。日本でも日系メーカーの海外要員の募集に対して応募し、無事内定をいただいたため、そこに入社することに決めました。
苦渋に満ちた駐在初年度前半
入社3年目で、私はオーストラリアへの赴任を言い渡されました。嬉しかったですね。夢にまでみた念願の海外勤務。辞令をいただいた後、誰も見ていないのを確認してからガッツポーズをしたのを覚えています。
どちらかと言うと異端児で劣等生の道をずっと歩んできていた私にとって、このいわゆる「栄転」は、自分の能力が本当に認められたと感じた瞬間でしたし、また自分の能力が発揮できるとも思った瞬間でした。
私には英語力には問題がないと思っていました。TOEICは900点以上ありましたし、また周囲からも「ヒデムラは英語力がある」と言われていたので、正直英語に関してはあまり問題がないと思っていました。
そして、オーストラリアに意気揚々と渡航します。
しかし、赴任当初、私はその考えが非常に甘いものだったと痛感させられます。
赴任後3か月は言語による壁をあまり感じませんでした。現地スタッフからも英語の能力は褒められましたし、良い関係を築けていったように思います。
会議等で分からないことがあっても、それは知識不足である点が多かったからです。社内で独特のシステムや略語等、これらのことを学んで行けば、十分についていける。そう思ったのです。
しかし、赴任後3か月以降、私は言語障壁を痛烈に感じることとなります。
それは、仕事を進めて行く中で、私がより重要な会議に呼ばれ始めた時でした。それまでの会議は「この方向で行きますよ」ということを「聞く」立場。しかし、仕事を進めて行く中で現地スタッフと共に「作り上げていく」必要のある会議があったのです。
その会議では非常に情けない想いをしました。なぜなら、会話に入ろうにも、まず彼らの白熱した議論の内容が分からない。私が分からないことを誰かが説明してくれることなど、もちろんない。そして、「Yujiはどう思うんだ?」と聞かれた時、もう一度説明を求める時の情けなさ。それまでの会議の熱を一気に冷ましてしまったことも、何度もありました。
それからというもの、私は会議の録音の許可を取り、録音したものを聞き、何度も聞き返し、友人に手伝いを頼み・・・。今思えば、非常に効率の悪い学び方をしていたと思います。
しかし、効率は悪いながらも私の努力は徐々に身を結び、1年後には現地スタッフと対等に会話を進めることができるようになりました。
駐在経験こそが、私にとってのキャリアパスだった
受け入れられた後の私の駐在生活は本当に楽しかったです。もちろん苦しい時もありましたが、それも日々の充実感の中での苦しみだったため、公私ともに生活を満喫できたように思います。
私はこの海外駐在を通して、異端児である秀村という人物が、日本社会に顔向けできるような気分になったということです。
海外駐在と言う経験が、キャリア、お金、人生の考え方、自信、視野の広さ、その他様々な面で、私の人生において非常に大きな、そして良い影響を与えてくれたのは間違いないと確信しています。
日本ではデキる社員が、海外でダメ社員に
しかし同時に、オーストラリア滞在中、私は他の駐在員達が能力をほとんど発揮できていない様子も目撃してきました。
しかも彼らは、日本では「デキる」人物達なのです(だからこそ派遣されるわけですが)。なぜ、こんなにも変わってしまうのか?というぐらい、海外では「ダメ社員」のレッテルを貼られてしまっている人たちも大勢出会いました。
原因は種々あったと思いますが、うまくやっていけなかった方々に共通して言えるのが、「現地に溶け込みながら、物事をうまく進めることができなかった」ということです。
会社では、仕事ができることが武器であり、受け入れられるために必要です。しかし、この「仕事力」がどれだけ優れていても、インプットやアウトプットに障害・・・すなわち、言語障壁があり、結局あまり爪痕を残すことができないまま本社に帰任してしまった人も多くいらっしゃいました。
「そもそも仕事ができない」のは論外ですが、英語が原因でその能力が制限されているのは、本当にもったいないと思いました。そして、帰国後私は退職・独立し、私は英語を使ってビジネスをする人たちに英語を学ぶ方法を教え始めたのです。
私が乗り越えたのなら、誰でも乗り越えられる
教え始めて、私が思い出したことがあります。それは私の中学校時代でした。
私は劣等生でしたが、一つだけ自負がありました。それは、「分からなければ質問し続けることができる」ということでした。(今思えば、もう少し空気読んだ方が良かったと思いますが・・・。)
そして、私が分かった頃には、周りの人は全員理解できていたのです。
これはあまり自慢にならないことかもしれませんが、今ではそれが非常に役立っています。なぜなら、「私が分かることは誰でも理解することができる!」ということが、実際目の前で起こり続けているからです。
やり方が正しければ、誰でも英語力は伸ばすことができます。しかもそれは、計画とメソッドにより、再現できるものなのです。
受講された方々が現地で120%能力を発揮して活躍する姿を日々の励みとして、私も精進していきたいと思っております。